こんにちは、しろです。
読書ログをつけてみようかな〜と思って、読み終えて1分後から書き始めて20分くらいでバーっと書いた「正欲」の感想をつらつらと並べていきます。
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朝井リョウさんの「正欲」を読みました。
彼の著書は「武道館」しか読んだことがないのですが、途中まで謎に包まれた展開と心にもやを残す結末がいつもズーン…となります。
でもなんだかんだ「読んでよかったよな」と思ってしまう、不思議な小説。
稲垣吾郎さんや新垣結衣さんで11月に映画化するらしいので見にいきたい。
ということで、この下からネタバレが含まれますのでご注意ください。
繋がり、正しい欲、性欲、いろいろなことについて頭から離れない。
わたしは今漠然と死にたい。どこかに消えてしまいたい、というのが本音だ。でも、「明日生きるための行動」をしてしまう。それは、家族や友人、趣味との繋がりがわたしを明日まで生かしてくれているからだ。
異性愛者はそれだけで繋がれる。「あの人が魅力的だった」「こういう恋をしている」そんな話だけでも、繋がりはできる。
でも、特殊性愛者はそれに罪悪感を持って、隠して、生きていく。それは友人とのコミュニケーションへのひとつの話題の欠落を意味する。そして、それが違和感になり、人間との関係自体が希薄になる。
佐々木や夏月はそんなコミュニケーションの欠落で孤独感を感じていたからこそ、契約結婚をした。
この二人について、なるほど、そういうこともできるのか、と感じた。
お互いに不可侵で、すべて折半で、なにもかも自立しているけど同じ秘密を持った人がそこにいるというだけで、「この人を置いていけない」が出てくる。
そんな繋がりを広げようとした時に引っかかったのが大也だ。大也も同じような異常性愛を持っている。男性からの視線が怖い異性愛者の八重子はそんな大也を「この人なら気持ち悪くない。大丈夫だ。」と思ったが、それは異性愛者の値踏みするような目や「イケるかイケないか」の尺度が全くないからだ。
彼がより近い繋がりを求めたように、人はより近い繋がりを求める。趣味でもそうだし、恋愛でもより近くに行ける関係を求める。
八重子は大也のことが好きだった。それは異性愛者としての本能だった。でも、そんな大也がどんな性癖を持っていようが関係ないと言ってのけて、「わたしも繋がっていることを覚えていて」と伝えた。八重子がいることを大也が思い出せたら、そして自分の性癖がもっと歪んでいることを伝えられたら、きっと死ねずに明日を生きることになるだろう、と希望を持っている。
ただ社会の「普通」から断絶されて生きるために繋がった異常性愛者の中に、矢田部がいた。その矢田部が犯罪と言われる異常性愛(児童ポルノ等)をさまざま取り揃えていた、ただそれだけで水に性を感じる二人は社会から断罪されることになる。とても悲しかった。
でも、寺井は「正しさ」を求めた。供述として「水に性を感じる性癖であるため、子どもを目的としていない」は通用しないと思われる。寺井は「正しさ」を追い求めすぎてがんじがらてになっている検事で、たぶん「その先の子どもを目的にしていたんだろう」を糧に起訴をする。
自分の正しさが間違っていないと確信して、正しくないと思う道を進む息子に自分の考えを押し付け、妻にも「何が間違っているんだ?」と言わんばかりに詰め寄る。こういう人こそ私は「無敵の人」だと思う。
涙を流している妻を見て興奮するほんの少しの異常性を孕んで、それでも社会として、自分として「正しいことを言っている」ことに少し酔いしれているような、そんなように見受けられた。
社会での多数派が正しいのであれば、それはとても正しくない人間が増えてしまうな、と思う。
水への興奮を感じる彼らが生きやすい世界になんて到底ならないと思うし、彼らのような異常性愛者はまたひっそりと自分たちのコミュニティにこもって自分のことを慰めるしかないのだろうけど、正しくない人間が増えていく世の中で、そんな中でどうにか自分を繋ぎ止めるものが選択出来る世の中でありますように。
そしてそれが自分のストレスになりませんように。
わたしはわたしを手放したいけど、繋がれているからまた明日が来てしまう。
というのがばーっと書いた感想です。
「明日を生きるための広告」とか、刺さったな。
なんだかんだ明日を生きるためのことやってて自分に矛盾が生じていて、そんな自分がとてつもなく嫌い。一貫性がない。
でもこんな広告に踊らされて行動しているうちは死なないんだろうなって少し思えた気がします。
ありがとう朝井リョウ先生。
読んでよかったです。