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うっかりジャニオタになってしまった2〜2.5次元のおたくが騒いでいる日記です

LUNGSを見て。(要注意)

※とても個人的で繊細なことを話しています。LUNGSの感想のようで、自分のことを語っているお話でもあるので、ご注意を。

 

 

 

 

こんにちは、しろです。

神山智洋さんの主演舞台である「LUNGS」を見てきました。

すぐに感想を書きたくなって、でも自分には刺さりすぎて抜いたら出血死してしまうかもしれない、というところが多くて、不思議な舞台でした。

今回なにも推敲してないうえに、少しみなさんを心配させてしまうかもしれない自分語りが入っているのですが、これがわたしの感じたことです。また追記するかもしれない。勢いだけで夜中に書いています。

いつものように楽しんで読んでね。とも言えないのですが、どうしても残したくて、書きました。

よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

この演劇のただふたりだけの登場人物であるMとW、名前がないところに「万人に当てはまるシチュエーション」なのかもしれない、と思い知った。こわくなった。

 

 


とにかくとにかくいろいろ自分のことも考えてしまって泣いてしまった。今、ほぼ寝れなかった状況で、何時間も泣いた状況でこれを書いているので、なにを言ってるんだ?というところがあるかも。でも、ふせったーで残すのはすこしもったいないな、と感じたのでブログに残します。

 

 

 

とりあえず言いたいのは、この演劇はほとんどのパートが「対話」というよりもお互いの「主張」だったな、ということ。

常にお互いの主張をぶつけ、頭では理解しつつも本能や心からの理解は得られていなかったように感じる。

動物としての生存本能(種の保存)が一致したときにだけ、彼らは「一致」していたのだと、わたしもなんとなく本能的に理解した。

最後の方のシーン、実際に一人の人間を育てるとなって、はじめてこのふたりは対話ができるようになったのでは?と思った。それは後がないという「どうにでもなれ精神」となんだかんだ深く考えるもの同士だった「愛情」、そして「協働の精神」からくるものだったのかもしれない。

 


自分が暮らす、そして子が暮らすであろう地球のために、「いい人間」としてなにができるのか?それを学んでいたふたりだからこそ、「愛し合うふたりで子を育てるという幸せを得たい」と「本当に自分に育てられるのだろうか?」と「そもそも子は将来幸せになれるのだろうか?」の狭間でゆらゆら揺れていた。

 


わたし自身は今は愛している人もセックスする相手もいない。でも、漠然と「自分に子を育てることはできない」と感じている。それは、彼らのように地球のことを考えた意見ではなく、自らがそんな器ではなく、そしてそんな余裕もなく、無償で無限の愛情を与えることができないと考えているからだ。父からも母からも本当に無償の愛情をもらっているからこそ、わたしには無理だと考えているが、この自分の考えを、とても短絡的だなあ、とこの舞台を通じて感じた。

まだまだこの世には学ぶべきことが多い、とも感じた。

 

 

 

Wは激情的であると思う。それでいて、臆病で繊細である。まあだいたいの女はそうだと思っている。わたしがそうだから。

甘えたいときに甘え、怒りたいときに怒り、わかってほしくて吠えて、考えたいと言うのに考えられない。でも、なにかを崩すまで暴れたくはない。だから「なんちゃって」なんてごまかす。

女性は「子どもを産む」という当事者である。男性も当事者ではあるけど、産むという行為自体は、女性にしかできない。

だからこそ怯える。自分の身体が変化していく不安がある。自分の身体に生命が宿っているという責任を感じていた。だから不安でもあり、幸せそうでもあった。流産のときは、本当に「責任」を感じている人の顔をしていた。


Mは本能的である。それでいて、なんでも「人間として」理解しようとする。

彼は本能で動いているところに、後から理由をつけているように見えた。子を残したいという話も、木を植えようという話も、そして、浮気をしてしまったという話も。

でも、彼は彼女を愛していた。それは嘘ではないと感じている。彼女のことが好きだということは嘘ではなく、本当で、でもそんな彼女の大きい感情の波が理解できなくてもがいているように見えた。

男性と女性は全然違う。人間なのにまるで種自体が違うようだ。だから理解できないこともあって、でもそれでも彼は彼女のなんでも受け入れようとしていたように感じる。まあなんでも受け入れる「おおらかさ」を見せるには他人に甘えなきゃやってらんなかったみたいだけど。

彼も子供ができて怯えていた。自分の子がもし生存戦争において弱かったら。生命がなくなってしまったら。そうやって怯えるさまは、本能と理性どちらも感じることができた。

 

 

 

 

 

 

本当に突然自分のことを語るんだけれども、私は精神疾患持ちだ。時期によって軽くなったり重くなったりする。ずっと付き合っていくアレルギーのようなものだと勝手に思っている。

その事実を両親に1年以上隠していたのだが、つい最近吐露した。本当は隠し通すつもりだった。もういい大人だし、心配をかけたくなかった。ずっと誇れる娘でいたかった。そして、わたしの苦しみを負担してもらうのが怖かった。

でも、吐露した時、わたしが言わなかったことに、まず悲しませてしまった。わたしにしか非がないのにも関わらず、「ごめんね」と言わせてしまった。それをひどく後悔している。でも、一方で隠し通せなかった自分にも後悔している。

 


とまあこんなことがあって、自分は「自らが産んだ子」として親にとても後悔させているのではないか、とても愛されてはいるけど(それこそ無償の愛とはこういうことか、と感じている)、産んだこと、育てた過程のなかに大きな後悔を孕ませてしまったのではないか、と考えてしまって、この舞台が本当につらかった。

このふたりはそんな苦しみや後悔を未然に防ぎたい、でもより幸せを得たい、その狭間で揺れていたけど、私は幸せを願った両親に辛い思いをさせているのだろうか、と考えてしまった。

これが、わたしのいちばんつらかったところ。

 


MとWは子を産んだその後、ふたりで協働して対話して、紆余曲折ありつつも育て上げ、そして地球はそんな間もゆるやかに破壊を続けつつ、人生を全うした様子が描かれていたけど、わたしはこんなところで両親につらい思いをさせている、と感じて惨めになっていた。隣に母親がいたので余計に悲しくなってしまった。

 

 

 

 


思ったよりも1.3倍速いスピード、そのスピードでめまぐるしく変わる場面、感情、すべてが大きな波となって襲ってきた。

月をモチーフとした円形の舞台、そして差し込む月光のような照明。

(11/11追記 なぜこの舞台機構は月のように見えたんだろう、と思ったんだけど、「地球の周りをぐるぐると廻る月」と「地球の上でぐるぐると考える人間」に共通点が見出されたからかな、なんて思ったりした。いやどういうこと?ニュアンスでわかってほしい。

そして、壁のようにも一筋の道のように見える舞台上に立ったセットも本当に秀逸だったな…と今になって感心しています。)

 

神山さんも奥村さんも観客を振り落とす勢いでありながら引きこませ、この世界に誘う。

とにかくすごい舞台だった。こんな衝撃があるんだ、と感じた。

神山さんご自身でないのに「その人の生き様」を感じられる芝居だった。もっと見たい、と感じる素晴らしい演技だった。

見れて本当に幸せだった。

 

 

 

 


いろんないらない感想がついていてこうやってネットの海に流すのも躊躇ったけど、わたしの素直な感想なので残しておくことにします。読んだみんなを暗くさせたらごめんね。でも責任は取れません!ごめんね!

 

 

 

 

 

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